こんな本読みました。

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『残される者たちへ』 小路幸也 著

2008/12/22(月) 08:35:38 小路幸也 THEME:読んだ本の感想等 (ジャンル : 小説・文学 EDIT
 小路さんカーニバルの今年のトリを飾る作品。
 【きらら】での一年間の連載を追いたいのをぐっと我慢。単行本になるのをとても楽しみにしてました。
 やっと手元に届いてまず驚いたのが、帯のコメント。辻村さんだったんですか!
 ……実はちょっと引いたんですけど私(とことん合わないんですすいません)
 未読のかたは、これより先にはお進みになりませんよう。




小路さんの作品の主人公たちはみーんな、現実から逃げないなあとしみじみ思いました。いや『Q.O.L.』の2人は半分逃げてるのかもしれませんが、それでも行動する。逃げた方がはるかに楽に生きていけるのに。

だからこそ、小路さんの小説を読むと、こんなのらくらしてたらあかん!もっと必死に生きないと!って元気づけらるし頑張ろうって気にもなる。

特に子どもたちが重いものを背負ってることが多いので余計にそう思うのかな。

そして小路さんのdiaryにあったように、確かに『パルプ町シリーズ』と『そこへ届くのは僕たちの声』を足して年齢層を上げた感じ、ですね。

人間の脳の仕組み、思い出や記憶という大切なもの。
思い出せないことと忘れていることと綺麗さっぱり消えていることの違い。

自分という存在は、記憶に随分と依存しているんですね。

不思議な現象が立て続けに起きると、もう不思議でもなんでもなく、偶然は必然になる。
ただそれが誰かの意思が働いた為に引き寄せられたというのは、ぞっとしますね。
神様ほど無慈悲でもないし、凶悪犯ほど空虚でもない、大切な思い出と大事な現在の狭間で少しずつ大きく振れていく振り子のようなもの。

慣性の法則に従って一番高い所から落ちていく振り子が、まさか途中で降りきれてしまうんじゃないかとか止まってしまうんじゃないかとか。

非日常って、めちゃくちゃ怖いんですよねやっぱり。

<方野葉団地>という美しいものをゲートにしてしまう、ある意識の存在をじわじわと感じるのは、非日常というより別世界。
でもそれを呼んだのは、そこに住む人の心だったんでしょう。
団地の敷地内に入った途端、誰もが家に帰ったような気になる。
住民はみんな顔見知りで、心安く付き合える。
子ども達も大人も楽しくて仕方ない毎日。

2008年現在、こんな共同体を日本国内で探そうと思ったら、多分挫折するでしょう。それくらい懐かしい、でもそれほど昔々のことでもない、ほんの数十年前のこと。その頃の日本に確かにあった、暑苦しくて風通しの悪い、かけがえのない愛情の形。

そういう人間の意識を、地球の外、宇宙から眺めたとしたら多分、光の珠がぽうっと浮かび上がっているような、ふわふわした綿菓子のような幸せに見えるのだと思う。
ガルマンガミラス星のデスラー総統じゃないけど(笑)、やっぱりそういう温かな光って、手を伸ばしてしまうんじゃないかなあ。


(※これより先の読み方は、作者の小路さんご本人の本意ではないでしょう、むしろ嫌悪すべきものであるのかもしれませんがお許しくださいませ)
ニューエイジ世界の専門用語になりますが、アセンション、つまり意識が三次元よりももっと上、五次元とか六次元にまで昇華してしまうと、時間空間を飛び越えて、意識はカタチを保持できないらしいのです。肉体を持てないカタチを保てないということは、死の門をくぐらない、ある意味で不死の存在になってしまう。
中南米の古代文明の人たちが忽然と消えたのは、このアセンションによるものだという話すらあります。

そういう妙な知識があった所為で、私はこの小説に出てくる“得体の知れない意識体”とは、そうした存在なんだろなと素直に納得していました。
この、不思議で優しい(反面残酷だとも思うけれど)神様に近いような意識の存在は、私達の住むこの三次元世界で必死に足掻きながら生きている、不完全な存在である人間が愛おしくてしょうがないのだそうです。
両親の元に生まれ落ち、ヨタヨタしながらも必死で頑張る人間という生き物。楽しければ笑い悲しければ泣き、嬉しいことがあったなら喜び腹が立ったなら怒り、そして自分が傷ついたなら他人にはそんな思いをさせないようにしようと優しくなれる。
そういった感情を身を持って経験できるのは、この三次元に生きる私達人間だけなんですって。

そう思えば、その意識体は、怖い存在じゃなくて、ガーディアン、見守る人って感じになりませんか?

ただ、自分達を“はぐれ者”と呼ぶ、押田さんと妻の裕美さん、そしてみつきちゃんのお母さんとみつきちゃん、勇三じいちゃん。
彼らの淋しさは可哀想でもあるし、私達と同じ部分を分かち合う人間として頼もしくもある。ほんのちょっと進んだ人、とでも言えばいいのかな。
絶望の中でも諦めない強さをもって、暗闇から生還しようと頑張る準一さんと未香さんを導く人たち。私達人間を導く光。

人間としての部分でジュンチとの思い出を宝石のように思っているのに、相手は自分のことを記憶から消し去ってしまってる、なんてこと。
子どもの心には耐えられないと思うのに、おそらくその記憶の消滅にはいずれ大きな意味を持つことを知っていたからこそ、その楽しかった思い出は温かい光に包んでいた押田さん。
大事な一人息子を、その大好きなジュンチに託して、押田さんと裕美さんはやっと安息の日々に辿り着いたんじゃないかと思う。だからこそ、悲しいけれどご苦労様と言ってあげたい。

大事なのは、目に見えるカタチじゃなくて、そこにある温かい感情の光や匂い、柔らかさ、愛おしさ。時に暑苦しくてうっとうしい、風通しの悪い生臭さ。それをひとつひとつ体験しながら生ききること。
押田さん裕美さん、みつきちゃんとおかあさんの芳野明菜さん、勇三じいちゃん、そして準一さんと未香さん、ついでに高崎さんも(笑)。
みんな、そうして生きていくんだろうと想像できるのです。

ちなみに、子どもの頃確かに同じ身体に存在したらしいその残滓、準一さんがどうしても言葉で表現できなかったカタチ。また、押田さんとの暗闇でのやりとり。
未香さんが専門家として、また準一さんが体験者として分かりやすく噛み砕いて、みつきちゃんとお父さんに説明してる場面。
これは、<思考実験>だなあと実感しました。

思考実験。
地球人にとっても、別の意識体にとっても。
思考実験を、<想像力>と言い換えたら?

それは、私達が一番<人間らしさ>を表現する言葉。

(小学館 2008年)
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