こんな本読みました。

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『話虫干』 小路幸也 著 

2012/06/27(水) 08:45:41 小路幸也 THEME:読んだ本の感想等 (ジャンル : 小説・文学 EDIT
 まだこの新刊をお読みでないかたで、これから読もうと思ってるかた。
 か な ら ず !夏目漱石大先生の『こゝろ』を先に読んでおいてくださいねっ!でないとこれは、よく分からないまま終わってしまうです☆
 いやそれにしても、なんというか、不思議なもの読んだなあ、というのが読了後すぐの気持ち。面白いんですけど、実際の『こゝろ』との兼ね合いというか、どうやって着地させるんだろう…というハラハラ感というかヒヤヒヤ感みたいな(苦笑)
 何を書いてもネタばれってしまいそうで、どういうふうに感想書いていいものやら、しばし途方に暮れております…。



えーと。

まず、この感想書く前に冷や汗かいたこと。

視点人物のひとり、圖中くんの「圖」の字が、マイパソの変換の中に無い!!「と」はもちろん、これ「ず」って読まなかったかと思って(「図」の難しい漢字)そっちで探したけど無い。
ネットで漢字辞典とかで検索してみようと思ったけど、漢字一文字の検索って…?

で、ふと思い出した、ツイッター。
フォローしてる東大の先生が確か、この漢字使ったツイートされてたッ!というのを思い出して、ツイート遡ってようやく見つけてコピペしましたよ…あああよかった~~(涙)

ってそれはまあ、わたしのへなちょこPCの都合であって、感想ではないので忘れてください。

名作『こゝろ』が、〈話虫〉によって勝手に書き換えられてしまって、話の筋が変わっている。
〈話虫〉が変えてしまった部分を、図書館の司書さんたちが物語の中に入り込み、軌道修正を施して、元の筋に戻す、それが〈話虫干〉。

…こんな設定をよく思いつかれたなあ小路さん、というのが、率直な感想。

でもこれってものすごくテクニックが必要でうっかりすると大風呂敷がまったく畳めなくなるだろうし、なによりその名作の持つ気品や風合いといったものを損なわないように、最大限の気配り目配りをしないと書けないでしょう。

ミステリ界では特に、メタミステリ、という言葉で読者の口に膾炙しているくらい、〈メタ〉は馴染のものなんですが。

この作品はいったい、メタの何重構造になってんですか!

“原作”『こゝろ』には登場しない、たくさんの登場人物の中の誰が、〈話虫〉なのか?というフーダニットの変形のようでもあり。
そもそも『こゝろ』に出てくるはずのない、あーんな人やこーんな人の溶け込ませ方を愉しむのもよし。
そしてやっぱり、原作の『こゝろ』での、〈私〉や〈K〉や〈お嬢さん(妻)〉とのキャラクタ設定の違いの妙。
これだけ性格が違っていたら、どうやってあの原作のラストに持っていけるのかと心配になってきたところで、

こ の 手 が あ っ た か !

みたいな(笑)

現在のシーンで、「『こゝろ』は早い話が恋バナだ」というくだりがあるんですが、〈話虫〉に改変された“『こゝろ』亜種”の中では、糸井君を軸にした友情物語になってる。その友情は、時間と空間を越えているけれど、青い空で繋がってる。青春バンザイ!
どれだけ自分が異質でも、関わりあって一緒に時を過ごせば、情もわくし、友情のひとつやふたつも育まれるでしょうよ、うん。

で、この「情」が、原作の『こゝろ』を愛する魂、「文学を愛して止まない彷徨える人間の魂」であるところの〈話虫〉と、紙一重なんですよね。
ネットの世界でいうなら、妄想世界を書いたり描いたりする二次創作というか同人活動と似たようなものかな、と思いつつ読んでましたけど。間違ってる……?

原作の中では、〈私〉〈K〉〈お嬢さん〉〈節子さん〉としか出てこなかった登場人物名(私やお嬢さんを登場人物名と言っていいのかすら分からない…)。
それが、〈私〉にはちゃんと圖中和生という姓名があり、Kは桑島芳蔵といい、私が下宿する家は妹尾家といい、桑島君には腹違いの妹さんまで居た、という時点でもう、原作のキャラクタじゃなかったわけで。
(だいたい、イギリス留学のトラウマから推理小説が嫌いだったという夏目漱石が、エドガー・アラン・ポーだの「探偵社」だのいう言葉を使わないだろう!と思った時点で、全体像に気付けよわたし!)
この本を読み終えたときに、これは最初から、現在の糸井くんたちが『こゝろ』の世界に入り込んだというファンタジー小説であったのか!という納得。
だから、圖中君と桑島君は〈私〉と〈K〉が辿る人生の結末にはならない、その明るさ。

作中の圖中君と桑島君は、糸井君を「飄々として、軽い」と評します。明治の人たちから見れば、現在のわたし達は、良くも悪くも軽いのでしょう。
でもこれって、圖中君や桑島君はフィクションですが、ともかく明治の文豪といわれる作家先生たちがその時代に見合った重さでものを見ていたからで、
糸井君の軽やかに見える人物評は、パラドキシカルな書き方をすれば圖中君や桑島君が、あらゆることをすっかり突き詰めてしまった、考え尽くしてくれたおかげでもあるのですよね。
わたし達はわたし達の時代に見合った考え方でいないと、生きづらくてしょうがない。タイムトラベラーもののテーマって、科学技術の進歩がどうとかより、ぶっちゃけそこですよね。

『こゝろ』を愛読されている小路さんだからこそ書けた、それでいて小路さんらしいタッチと軽やかさで。

不思議な世界をたゆたうように、明治の文豪の諸作品を敬遠しがちなライトなわたし達でも愉しめる、名作へのオマージュでありましたw
夏目漱石大先生がこの物語を読んだとしたら、どう評したかなあ、と思わずにはいられませんでした☆

今までの小路さんの作品とはどこか違うような、初めての気持ちがします。
えらそうなことをいうなら、この作品は小路さんの新境地を拓くかもしれない、ですよ♪♪


(2012.6 筑摩書房)
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