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『天才だもの。わたしたちは異常な存在をどう見てきたのか』 春日武彦 著

2011/08/31(水) 18:15:47 エッセイ・ノンフィクション THEME:読んだ本。 (ジャンル : 本・雑誌 EDIT
 
 小説じゃありません。著者の春日先生は精神科医です。でも平易な文章で書かれているので、くいくい読めます。
 それにしても。
 春日先生の著作を読むのは…3冊目だったか4冊目だったかですが。ご職業柄、というと乱暴ですよね、春日先生に限って言えば、そこはかとなく黒いです(笑)でもその黒さが、わたし達のなかのどこかに触れる黒い部分をズバリ言い当てていて、思わず後ろを振り返りたくなってくるのです。



まず、読み終えて一言。
このタイトル、『天才だもの。』って、相田みつをさんの『にんげんだもの』をもじってあるんですよね?それは最初、読む前からの認識でしたが、…なんというか、〈天才〉=〈人間〉と言葉を取り替えたにしては、〈天才〉≠or≒〈人間〉にも取れるような。

まず、【序】の最後、本書のアプローチについて書かれているんですけど、そのラストがね…(苦笑)

「いかなる善人であろうと、天才について噂をするときには、必ず心が濁る。邪な精神が活気づく。(略)最後まで、たっぷりと心を濁らせていただきたい。」(20ページ)

…どうしましょうかこれ…(笑)ていうか、確かにそうなんですよね。「心が濁ってる」自覚はないかもしれなくても、やっぱり自分には敵わない才能の持ち主というのはかすかでも嫉妬するし、反面、天才というのは世間の非常識的存在だというステレオタイプな思い込みがあるから生きるのも大変だろうなあ、とケチな同情心も持ったりする。
で、開き直って、意地悪な気持ちで天才についての話をしましょう、ということですよ。

わたしは、「天才」って、何かひとつの使命を持った人、だと思ってたんです。
その他の部分が欠落していたり、足りなかったりしても、目を見張るような、その時代の誰一人として到達できないような傑出した才能、能力を発揮するなら、平凡な人間として腹が立つ存在ではあっても存在そのものを否定しようとは思わない。
その使命を全うするなら、それが最優先でしょう。でなかったら、何のために生まれてきたの?と思う。

でも、この本では、早熟の天才が齢を重ねることの悲哀や、天才のまがいもの、そもそも「天才」というものの定義の難しさ、など、著者なりの視点で考察されてます。その視点がひねくれてて愉快なんですよね。

天才と言っても、いろんなジャンルに天才がいる。芸術とスポーツとは天才の意味が違う。
そして、エキセントリックな人格をもって「天才」と見ていないか?と問う。
彼らの言動を真似ただけのまがいもの、詐欺師、自己顕示欲の高すぎる人と、天才をどう見分けるか。
「天才」と謳われた人が、孤高の存在であることの理由。孤独を恐れるわたし達とは違うし、もし天才が孤独を恐れ周囲の声に圧され始めたらそれはただの凡人に成り下がるケースがほとんど。

けれども、現実的に見ると、天才って、「強烈な個性」と言い換えてもいいかしれない、とも思いました。
神様や魔法使いほどファンタジーじゃないし、そこらへんの人間とも違う、その独特で特別な存在感は、目映く輝く個性であって、その個性とは天賦の才である。そういう言葉遊び。

おそらく誰だって一度や二度は、「自分は選ばれた存在かもしれない!」と天啓を受けたような高揚感に満たされることがあると思う。
その「選ばれた人間」は普通「天才」と言われる、その仲間入りができるかも。その才能で一生を面白おかしく暮らしていけるかも。そう思ったことって、ないですか?

でも、本当の「天才」は、そんなこと思いもしないんでしょう。
「暮らしていけるかも」じゃなくて、「生きていく手段」というか「こういう生き方しかできない」という人たちが、「天才」なんだと思います。

この本で繰り返し出てくるモチーフは、たぶん、「天才性は揮発する」ということではないかな。
確かに、一生をずっと変わらないレベルの天性を維持し続ける天才もいるとは思いますが(というか、それこそが天才の証かも)、そういう人は大概、短命だったり極端な隠遁生活を送ったりと、「才能を留まらせる(揮発させない)」ための努力と環境が必要なんでしょう。
で、多くの天才は、だんだんと輝きが鈍ってくる。世間の声に迎合したり、違うアプローチを試したり、枯渇していく才能の泉を直視できずに精神が歪んだり。
「才能なんて、もともと揮発するものだ」という割り切り方ができればいいけど、そのマンネリズム、世間に飽きられたらどうしようという消えない恐怖がある限り、天才は100%の天才じゃないのかもしれない。

努力して得た地位にいる人は賛美するくせに、持って生まれた才能を見せ付けられると、凡人はひがむのよねえ。

天才じゃないわたしは、たとえば大好きな人たちといつまでも仲良くいられることや好きな仕事ができることやハイクオリティなステイタスや明日の心配をしなくてもいいことや困ってる誰かや何かに手を差し伸べられるだけの器があること、そういうものが大筋で人生の成功といえるかもしれないと思います。他の生き方を選んでも成功する可能性、人間として幸せかどうかは別にしてね。
でも、本当の「天才」は。
そもそも成功かどうかなんて関係ない、ただ自分が世界を作り変えられればいい。大きいことを言っているという自覚もない。(凡人が)神の領域だと思うことを自分が成し遂げられたなら、「神に選ばれた人間」と同じことだから。それを確信してる人。それを本能で知ってる人。そんな気がしました。


一回ね、世界中の「天才」と言われてる人たちを集めて座談会とかしてみたらどうだろう。
そこには自分と同じ「天才」しかいないから、相手の言うことや思考や感覚が手に取るように分かるだろうし、もしそれが分からない人がいたら、それは「自称・天才もしくはまがいもの、ばったもん」です。会場から放り出してやりましょう(笑)
凡庸なわたしには理解できない、どんなことで彼らは共感できるんだろう、と、そういうシーンを妄想してると楽しそうじゃありませんかwww

(青土社)
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