こんな本読みました。

読んで感じて書き出して、そして忘れていく。備忘録ブログ。

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『ラプソディ・イン・ラブ』 小路幸也 著

2010/12/15(水) 10:46:08 小路幸也 THEME:読んだ本の感想等 (ジャンル : 小説・文学 EDIT
 おおおおおwwww
 久しぶりに最初から最後まで一気読みしちゃいましたよ!連載追っかけるの我慢した甲斐があった!あー楽しかったっ♪
 読み終わった直後はなんだかふわふわして、いつものように単純に小説世界に遊ぶよりももっと現実を忘れるためのボーダーが凝ってたんじゃないかと思います。プロットのおかげなんでしょう、まるで原作を読みながら映画館で映画を同時に観てるような感覚。…んーーなんて言えばいいのかボキャが少なすぎて悲しいぞわたしの脳みそ!(涙)
 この本が(新刊だから当然ですが)帯の惹句とともにババンとよく見えるように本屋さんの平台に置かれていたら、普通にテレビドラマや映画に馴染んでる人の興味を引く、いい装丁だと思います。






コレいい!!めっちゃいい!!
めぐりんシリーズもとい『HEART』シリーズと、『東京バンドワゴン』シリーズは鉄板として、わたしの小路作品オールタイムベストな傑作『空へ向かう花』を読んだ時の気持ち再来♪♪


今、読書メモを見てみたんですけど、今年の小路さん、すごいです!出す本ぜーんぶ素晴らしい!
『リライブ』…あ。これ昨年末かな。わたしの読書メモは前年12月スタートなので…、『DOWN TOWN』、『オール・マイ・ラビング 東京バンドワゴン』、『僕は長い昼と長い夜を過ごす』、『さくらの丘で』、『探偵ザンティピーの休暇』、そしてこの『ラプソディ・イン・ラブ』………大丈夫ですか小路さん、働きすぎじゃないですか…?いくら連載が纏まったものが何作かあると言っても…。おっと、ノベライズ本を忘れてました『おにいちゃんのハナビ』もだ。

えっとね、今回の『ラプソディ・イン・ラブ』に関しては、今までと少し感じが違う気がする。
まず、「誰がどう見ても《いい人》!」という安心度100%キャラが出てこない(笑)
ノンフィクの映画を撮ってるという設定だけど、スタッフの姿は全く登場しない。役者である登場人物たちのモノローグの中におおまかな様子が出てくるだけ。監督でさえ名前はクレジットされてるのにどういう人なのか姿を見せない。(実はこれも計算だったんですね☆)
だから、わたし達読者が感情移入できるのは俳優陣だけなんですが、……「爆弾」という言葉のとおり、みんなこの仕事に託けて、自分の中で止まってしまったある時間を動かしたいという願い、過去と未来のために歯車をまわす起動スイッチを隠し持ってるから、文字通りの《いい人》というより「どんな物騒な爆弾持ってるんだろうこの人。わくわく♪」てな感じかなww
そんで皆、それぞれ結構な爆弾だった!(苦笑)

もうひとつ。
この作品は、《笠松市朗》という名優の最後の願い、最後の作品、というコンセプトなんですけど、この装丁が徹底していて、目次はともかくその次のページからもう既にこの《シャシン》(映画)は始まってるんです。だから、展開するシーンはそれぞれの俳優さんの視点持ち回りのモノローグはあるにしても、どんな映像がスクリーンに映っているのか、読者は読みながら映像をイメージしていくんです。が。
脚本のない映像には、当然登場人物の感情が映り込むことがあるらしく。ところどころ、メインカメラのまわっていない所で監督や他のスタッフは知らないシーンが描かれている。
これを、わたし達読者はどういう風に読みますか?
普通は「神の視点」とでも言うべきなんでしょうけど、わたしは「小説のキャラクタのための世界」…んーと、どう書けばいいのか未だに上手く言葉が出てこないんですが、よく「作者の手を離れてキャラクタが勝手に動き出す」っていうじゃないですか、あれに近い。「監督の手を離れてキャラクタが映画(小説)を改変する」物語。
そしてわたしは読んでる間中ずっと、
「世の中の全ての小説(フィクション)というものは、こうして(フィクションなはずの)キャラクタが(実存しているかのような)確固とした主観的意図で、原稿用紙(というか今はPC画面)の中から小説そのものを動かしているんじゃないか。キャラクタは自覚して文字として読まれているんじゃないか」という思いを。

簡単にいえば、

「新井素子さんの『……絶句』は、小説(わたし達が読む《小説》という無数の作り話)じゃなくて、あれこそがノンフィクションなんじゃないか?」

ということでした(いいのかこんな例えで!)

わたしの主観、感覚的なことで申し訳ないですが、そんな感じ。

…何が書きたいのか分からなくなってきたところで(苦笑)

この「家族」は、《笠松市朗》を要として構成されているはずで、その存在感もカリスマも圧倒的なはずなのに、わたしにはどうしても、一番存在感の薄いひとでした。
遺言・遺作という前提の映画作りなので、この人が物語の中心なのはそのとおりですが、何故か、笠松市朗という俳優も人間性も、元妻や息子達や将来の嫁から見た偶像でしかなくて、もちろん笠松氏が息子達に話す大した爆弾話は壮絶なんですけど、何十年も前のこと、ましてや現在は時折意識の飛んだただの老人になってしまう状態なので、言ってみれば「戦争を知らない子ども達」がおじいちゃんやおばあちゃんから戦争体験を聞くようなもの。現実感が薄いんです。

家族を捨ててまで、モラルや常識を吹っ飛ばしてまで自由闊達に生きた伝説の老俳優の最後のわがままのために集まった「家族」ですが、この元妻や息子達、そして婚約者として自然に迎えられた若手実力派女優さんは、もちろん夫や父親を心底気遣ってはいるんですけど、それでもまるで復讐・意趣返しのように、笠松氏を乗り越えていく。子が親を乗り越えるのは、親が子に乗り越えられるのは、どんな形であれ自然なことなんだよ、というように。
それを撮り続け、編集し、世に送り出すことを自分に課した「監督」さんは、隠れキャラとして誰よりも葛藤しアイデンティティとして乗り越えた。それが巻頭の監督のコメントに集約されてる気がします。

それと、それぞれが人気・実力・キャリアともに申し分のない俳優さんたちなので、実の親子、半分は血の繋がった兄弟、形的には義理の親子になるはずの人が集まればそれなりに「家族」のシチュエーションは完成しそうなのに、どうしてもこの人たちは真の「家族」になれない。ライバルだったり、同業の先輩・後輩だったり、憎むべき人や憧れの人だったりで、戸籍以上の家族にはなれても、魂の安らぐような家族にはなれなかった、というのは、笠松氏のもつ束縛を嫌う魂の圧倒的な求心力によるのでしょう。笠松市朗という存在がこの世から消えてしまったら、残された元家族は2度と一つ屋根の下で一緒には暮らせない。その淋しさをハッピーエンドにしてしまう、映画的なラストシーンでした。

なんかぐだぐだと書いたわりに、わたしが感じたこと思ったことの半分も書けていない気がする…(涙)
ああもっと端的に、エレガントに、感想文を書きたいものです……。


(2010.10 PHP研究所)
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