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『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』 岡田暁生 著

2010/02/01(月) 16:59:41 新書 THEME:音楽 (ジャンル : 学問・文化・芸術 EDIT
 学生時代に半ば惰性で音楽に関わっていたものの、これまでの人生ではもう関係ない時間の方が長くなり楽譜もたぶん満足に読めなくなっている私ですが、そんな人間がなんでこの本を読んだか。
 覚えておられるでしょうか、昨年末の有栖川先生の講演会でこの本が紹介されたと書いたこと。ということで、有栖川先生の(中途半端な)追っかけとして読まねばなるまい!とおもって購入したのでした(爆)
 つまりクラシック音楽の素養なんて学校の音楽室で習ったレベルです。マジで。そんな人間が、この本を読んだらどうなるか。




「音楽」という単語が、ほとんど「読書」または「ミステリ」という言葉に脳内変換されたのでしたー(苦笑)
そんなわけで、有栖川先生ごめんなさい、先生の奥様にも申し訳ないことです(平謝)

とにかく、一定レベル以上のクラシック音楽の知識があった方が、絶対に楽しい本です(←当然です)
ベートーベンやモーツァルトやシューベルト、ショパンにバッハ、リストやらそういう教科書に載ってる作曲家や超有名な人はともかく、海外国内あわせて音楽書評家さんなんて誰一人知らないし、作品名の「交響曲第×番第二楽章」とか言われても、たぶん聴けばああこの曲かー!と分かるとおもうものの文字を追ってるだけではさっぱり浮かんでこない。

そして↑のこういう聴衆が、音楽を地に貶めているということなんでしょうね……。
音楽に対して受身。
自分はただ聴くだけで、その音楽のバックグラウンド、作曲者の人となりから歴史的背景、時代を経てどういう変遷をたどって今自分が聴いているのかというリサーチ、自分の意思で知るということをこれっぽっちもしない人間は、こういう聴き方しかできないんですよきっと。

あまりに悲しいので、「音楽」を「ミステリ」と読み替えてみた。

するとね、なんていうか、有栖川先生があの講演の中で仰りたいことがもう少し分かった気がする。

ミステリを読むにも、ある一定の知識が必要で、きちんと文節や文脈を読み取れないと、作者が何を書きたかったのかを正確に汲み取れない。

「ページをめくる手が止まらない」とか「本を置く能わず」とか「徹夜して一気読み」とか、そういう感覚・おもい・姿勢で読んだミステリが、自分にとって一番のミステリ。

その作品に関して色んな読み方をしたレビューは役に立つ。ただし、他人の意見に惑わされず、自分なりの読み方をするのが大切。

「本格」なら「本格」、「サスペンス」なら「サスペンス」、「倒叙ミステリ」なら「倒叙もの」のアーイカヴを知ること。つまり、古典・不朽の名作といわれるミステリを読んで、自分の中の引き出しを増やすこと。

…「自分の中の引き出し」と書きましたが、この引用は、本書ではなんと少し前に私が読んで涙した『読んでいない本について堂々と語る方法』から採られていて、「内なる図書館」というなんか懐かしい響き(笑)に、この本を先に読んどいてよかったというべきか、なんちゅーシンクロニシティかとおもうべきか…。

あと、同じ趣味、同じ嗜好の人と共鳴できる場をもつこと。こうしてネットで感想を伝え合うとか、《MYSCON》のようなコアなミステリ読みのオフ会に参加するとか。そうすることで、もちろん楽しさも増すけれども、作品に対してどういう読み方をすればいいか、その言葉・語彙が増える。

でも、ここまで読み替えてみたことを箇条書きにしてみると、ほら。
有栖川先生が講演の中で話しておられたことと、一緒なんですよ。

ということは、先生があの時私たちに呼びかけられた、「ミステリを語ることばを一緒に探してほしい」というのは、
ただ、差し出された作品を受身で読み流すのではなく、まして感覚的な言葉を使うのではなく、共有できる言葉であること、作者の意図を汲み取れるくらいの知識(引き出し)を持つこと、その上で、読者も積極的に参加するように読んでほしい(フーダニットなら頑張って推理してほしい)、ということでしょうか。

が、頑張ります……。

ところで、私はこの本を読み進めていくうちに、この著者の先生(有栖川先生の奥様に所縁のかただそうです)が主にクラシック音楽を主眼に書かれているにも関わらず、

どうしても脳裏に浮かぶのは、アイリッシュミージックでした。

実際にアイルランドに行ったことが無いのであの国の雰囲気を体感たことも無く、ただテレビで見るだけですが、アイルランドの人々が心から音楽を大切にしていて、でもそれはガラスケースに飾って鑑賞するためのものではなく、自分も楽器を演奏して歌ってステップを踏んで見知らぬ人たちと一体になれる楽しみ方をしているでしょう。

ああいう感じの音楽が、「分断」される前のヨーロッパ音楽というものではなかったのかなあと。

私たちが「クラシック音楽」と呼ぶものって、(よくクラシック聴くと眠くなるとか子守唄にしかならんと言いますが)実はもっと楽しくて正確無比なリズムじゃなく滑ったり躓いたりするような感じの、天真爛漫なものなのかも、そんなふうにおもいました。
だって、「クラシック」が作曲された当時はもちろん「最新の音楽」であって「古くさいもの、形式ばったもの」じゃなかったんですもん。私たちのポップスと変わらない意識。

あと、オーケストラ演奏における、指揮者の見方が変わりますね。
同じ指揮者で違う演目を何度も聴いてみて、好みかどうかを判断する。または、その指揮者をよく知る人の意見を参考にする。またしてもミステリの作者と読者の関係のようですが、オーケストラは指揮者がいないと演奏できないといいます。すると、その指揮者がどういう解釈をするかによって、その演目(または指揮者自身)を全身を耳のようにして聴くか、それとも退屈に感じてうつらうつらするか。
曲そのものではなくて、どういう「言葉」を使うか、どう「解釈」して演奏するか、またその「言葉・解釈」を正しく受け止められるか。
発信者と受信者の丁々発止、コミュニケーション、なんですね。

人間って、本当にいろんな人がいますよね。
全員を好きにならなくてもいいから、認めることから、社会が始まるのだとおもいます。

蛇足。
「アマチュア」という単語の語源が、「アマートル」(愛する人)とは知りませんでした…またひとつ賢くなった!(そうして無知な自分を慰めるのでした…)

(2009.6 中公新書)
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